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2006年3月17日 (金)

中国新聞紙上で種明かし

 15日の火山公園(ひやまこうえん)の作業で姿をあらわした「あるもの」の正体が、何と16日の中国新聞朝刊の記事で明らかになりました。

  中国新聞地域ニュースへのリンクはこちらです

 写真と記事は新進気鋭の山崎記者で、熱心に取材をしてくださいました。今後も武田山に熱く取り組んでいただくことを大いに期待しています。

 ところで、武田山の「銀山城」とはどんなお城だったか想像したことはありますか?私たちは「お城」と聞くとすぐ「広島城」のような立派な天守閣や大きな石垣、水を満々と湛えたお堀をイメージしますが、このようなお城は桃山時代~江戸時代に建てられた「近世」のお城です。天文10年(1541年)に落城した銀山城は、近世より昔の鎌倉時代~室町時代、すなわち「中世」の「山城(やまじろ)」でした。
 中世の山城には近世の城の特徴である天守閣も石垣も水堀もありませんでした。山の尾根の斜面を平らに削って造る曲輪(くるわ)や尾根筋に数メートルの深さのV字の溝を掘って敵の侵入を阻む「薬研堀(やげんぼり)」や山の斜面の横方向の移動を阻む「竪堀(たてぼり)」などが中世の城の特徴で、山の上に天守閣があってそこに籠もって敵と戦うのではなく、敵の侵攻を阻み、足止めをして攻撃をしやすくする山全体の構造そのものが「お城」だったのです。武田山の頂上の「館跡(やかたあと)」には柱を立てた穴などが残っていますが、これら曲輪にあった建造物は柿葺(こけらぶき)の掘っ立て小屋程度のものだったといわれています。

 …というのは講演や文献の受け売りで、実際には名前の付けられていない曲輪跡には雑木が茂り、堀の跡も多くは数百年の歳月で埋まってしまって、なかなか中世の山城の実際の姿は、山に登っても私たち素人にはイメージしにくいのが現実です。
 そこで中世の建造物を再現してみようというのが今回の企画です。去る1月7日に県内の埋蔵文化財4法人の共同企画として開催された「新春放談 初夢ひろしまの城物語」でいただいた資料などを参考に、保勝会の登山道道標のヒノキの銘板を提供していただいている山本9丁目の(有)吉野建興様に技術指導を受けながら作業を進め、今月中には中世の見張櫓(みはりやぐら)が完成する予定です。

 武田山登山の前に立ち寄っていただき、数百年の昔に思いをはせながら各史跡をめぐっていただければ、当時の武士達の息づかいが聞こえてくるかもしれません。ぜひ火山公園にお越しください。

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