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2011年7月29日 (金)

本当は怖い武田山から宇品の花火見学

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 カブトムシ採りの1日目で子どもたちの明るい声の響いた武田山。同じ日の夕方、武田山の市民に親しまれている里山とは違う、もう一つの顔を知ってもらおうと企画した「武田山ナイトツアー」が開かれました。
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 参加者は、祇園西公民館職員の石川さん、広島南アルプスを一緒に歩いた「ほんまに先生」さん・惠美さんなど計10名。集合場所の祇園西公民館には5名が集合、残りは「武田山憩いの森」で合流予定です。
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 一行が最初に向かったのは町内のM氏のお宅。
 M氏のお宅の庭には先祖代々「石仏(いしぼとけ)」と伝わる大きな岩があります。仏さまが彫ってあるわけでもなく、石の形が仏像に似ているわけでもなく、名前の由来はM氏にもわからないそうです。この石仏をめぐる、M氏自身が見聞きした不思議な話を伺いました。
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 次に一行が向かったのは、武田山にかつてあった中世の山城「銀山城(かなやまじょう)」の城主、安芸武田(あきたけだ)一族の菩提寺「立専寺(りゅうせんじ)」。
 この寺の経堂に納められている木製の仏像は、宝暦4年(1754年)に立専寺の僧、恵照(えしょう)が彫った虚空蔵菩薩で、このあとに訪れる虚空蔵堂に安置されていたご本尊でした。
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 立専寺のすぐ近くの「真幡神社(まはたじんじゃ)」。かつては中国の軍神「黄幡神」をまつり村民から「おんばんさん」と呼ばれ崇拝されていましたが、明治5年猿田彦命を祭神として安置し「真幡社」と改められました。
 古老の伝説では何時の頃か何者かが社内の御祭神たる黄幡大明神の御神体を盗んで比治山の上に持ち帰り祭ったところ、夜な夜な御神体より「山本へ帰る帰る」との声が聞こえるという怪異が起こり、遂に神社を東山本の方向に向けて建てたところ山本へ帰るの声が止んだということです。
 この神社が比治山神社で、神社の古記録にも「当社の祭神は元東山本より遷座したる」とあるそうです。
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  真幡神社から、山に向かって住宅の間の狭い道を抜けると小高い丘が見えてきます。 大正6年に廃堂となり今は何もありませんが、ここにはかつて「虚空蔵堂(こくぞうどう)」というお堂が建っていました。
 明治の初め頃、安村からやってきた泥棒が、ご本尊の菩薩像をまんまと盗みだし、背負って帰ろうとしますが、水越峠まで来たところ背の木像がだんだん重くなり、遂に動けなくなったため思いなおしてあと帰りをした所次第に重さが軽くなり、不思議な霊験にうたれて元の虚空堂に返し、安置して安村に帰ったと伝えられています。
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 道路脇の草むらに五輪塔の一部が無造作に置かれています。毛利元就に敗れ、うち捨てられた武田方の侍の墓の一部なのでしょうか?このような五輪塔の一部は、町のあちこちに今でも見ることができます。
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 「武田山憩いの森」付近の「武田一族の墓」をめざして歩く一行の目に飛び込んできた「ため池」。いつも水面が赤い水草でびっしり覆われており、まるで乾いた血のような色をしています。何かの怨念でしょうか・・・
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 ため池から坂をあがった畑の向こうに「銀山城主武田氏の墓」と記した石標が立つ墓があります。ここには小石を沢山集めて造った小山が三か所あります。広島藩領内の地理、歴史を記した芸藩通志(1825年刊行)には「武田光和墓。東山本村、三王原にあり桜樹をしるしとす」とありますが、この墓がそれなのかはっきりしません。昔はだれも手を入れる者がなく、この墓地にはいつもへびがいて手入れをすると必ず病気になると伝えられ、いくつも実例があげられているそうです。昭和15年武田山保勝会がこの墓地の手入れをする際、立専寺武田庸全住職が入念な読経を行いそれ以後怪異はなくなりました。
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 ツアーの残りのメンバーと合流。登山の無事を願い手を合わせます。

 芸藩通志にこの墓に祀られていると書かれている武田光和(たけだみつかず)は第9代の銀山城主です。
 光和は文亀2年(1503年)3月3日に生まれましたが、生まれたときすでに、33枚の歯が生えていたといわれ、また、三日目まで産泣きをしないので、心配して、宮島の神主を招き、おはらいをしていただいたら、初めて大声をあげて泣いたということです。成長したときの身長は七尺(2.1m)余りもあり、眼は逆さに裂け、顔にはたくさん毛が生えており、きわめて大力で、鉄の弓を用いていました。
 また、銀山へ登る道に大きな岩が出ていて、馬が通るのに不便でしたが、六、七十人の人夫の力でなくてほ、とても動かすことはできないので、大昔からそのままになっていましたが、光和はこの事を聞き、自分の力試しにと言って、この大岩を軽々と谷底に転したと伝えられています。
 祇園町の帆立に現在残っている俗称「いぼ地蔵」は、一名「投石地蔵」といい、その石は光和が武田山から投げた石であると伝えられています。
 光和は天文3年3月3日、33才という若さで亡くなりますが死んだときは、黒雲が空中にたなびき、屋敷の上をおおい、雲の中によろいのすれ合う音、刀と刀のかち合う音、馬のくつわの金具の鳴る音がしたといわれ、その後の銀山は大魔所となって、奇怪なことがたびたび起ったといいます。
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 武田一族の墓から山道となり数分で「武田山憩いの森」に到着します。
憩いの森でトイレ休憩をとったのちに、自己紹介と準備運動をして出発です。この日のコースは真っ直ぐ登山口には向かわず遊歩道を通って広島経済大学のキャンパス内を横切りました。
 きれいに整備された野球場や運動競技のトラックの横を通りますが、弥生時代のムラ跡「大谷遺跡」「芳ヵ谷遺跡(よしがたにいせき)」「長う子遺跡(ながうねいせき)」 が造成時に発見されました。野球場の3塁付近から出土した箱式石棺からは熟年女性の骨が1体が見つかっています。
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 経大のテニスコートから山道に抜け少し登ると、小さな丘で五、六〇平方メートルのやや平たいところがあり、その一角に竜王をまつったと称する石囲いがあります。ここは昔武田氏の古戦場十王堂(じゅうおうどう)跡と思われる場所ですが、何時の時かなまって「竜王堂(りゅうおうどう)」となり、竜王をまつって雨乞いをするようになりました。土地の人はこのあたりの石にはたたりがあるから決して持って帰るなと言い、昔ある人が、ここから大きな石を持帰って庭石にしたら、家族が病気になったり、死んだりしたのでとうとうその石を山に返してしまったと伝えています。いま山の中にこの石があり、毎年その人の子孫がお盆にはお参りしていると「祇園町誌」にあります。
 また、武田山麓で石を拾って帰り、わら打ちの台石にしていたら、病人が絶え間なく出たので、占い師にみてもらったところ、その石のためということがわかったので、その石をもとのところへ返したら病人が出なくなった。その後またこの石を使って同様なことがあったとも伝えられています。
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 テニスコートからの山道を少し下ったところの道の脇に三角形の石が祀られています。数年前までお盆の時期には灯籠が立てられていましたが、名前などは彫られていない自然石です。この石がもしかしたら家に持ち帰ったため次々不幸に見舞われ、山中に返したという「たたり石」なのでしょうか?
(確証は全くありません。もし誰かのお墓だったら大変失礼な事を書いてしまっています。この石の正体をご存じの方はぜひご連絡お願いします。)
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竜王堂の先の鉄塔を過ぎると山道は険しさを増していきます。数分で憩いの森登山口からの散策コースと合流します。呼吸を整えて、「馬返し(うまがえし)」へ向かいます。
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 「馬返し」から先は、一段と道は険しさを増していきます。陽もすっかり落ちて灯りがないと先に進むことも難しく、各自ヘッドランプや懐中電灯を照らして進み十数分で「御門跡(ごもんあと)」に到着しました。
 今では岩が崩れてしまっていますが、かつては四角い石囲いと木の大門があり、山頂に向かう者を詮議して怪しい者は容赦なく斬られ、崖下に落とされていたと云います。
 御門跡では怖い話しの小道具の提灯も登場しました。
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 「御門跡」から「千畳敷(せんじょうじき)」を経由して、標高410.5mの武田山山頂には花火大会の始まる直前にようやく到着しました。
 リュックをおろしてお弁当を食べながら花火を待ちます。
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 まもなく夜景の向こうに花火があがり始めました。しばらく間をおいて「ドーン」という打ち上げる音が山頂に届きます。
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 2グループに分けて、山頂よりも視界の開けている「上高間(うわたかま)」の尾根の先の大岩にも行ってみました。空中散歩の気分が味わえます。この日はやや霞がかかって山の稜線はぼやけていましたが、花火はしっかり見ることができました。 Imgp2998
 1時間の花火大会が終了。山頂にはほかに誰もおらず山の上から一行が独り占めで花火見物を行いました。距離があるので、小さく見える花火に迫力はありませんが、広島市内の夜景も同時に楽しめて、怖い話しも忘れてちょっと贅沢な気分です。
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 花火大会終了後は、山頂で花火遊び。

「なに~!山火事になったらどうするんだ!」とのお怒りはご無用。
 三脚にカメラを据えて、シャッタースピードを数秒に設定、フラッシュを焚いて、その後に手に持ったライトを動かして描く、火を使わない写真にだけ残せる花火遊びです。ちなみに小道具として持って行った提灯の明かりもロウソクではなくて電池式です。(こちらで購入しました→PR用品のぼたんや

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 花火遊びの写真を撮り、一行が山頂を出発したのは9時30分頃になりました。登り以上に慎重な足取りで下山を開始し、馬場跡から水越峠をまわり「鹿ヶ谷ふれあい広場」へ降りるコースを選びました。
 鹿ヶ谷ふれあい広場からは舗装路を通り憩いの森へ一度引き返したため、祇園西公民館へ戻ってきたのは予定を大きく過ぎた10時40分過ぎとなりましたが、全員無事下山することができました。
 下山中、先頭を歩いていて途中2回ほど足元を黒い塊のような何かの気配が通り過ぎて行ったこと、ふもとのふれあい広場の三鬼堂跡では正面から白っぽい影のようなものが真っ直ぐ迫ってきたのは、参加者の皆さんが怖がるので内緒にしておきます。

おまけ
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今回不参加の広島南アルプスPR仲間の「武田山探見人」さんは、宮島桟橋発のツアーで大迫力の海上花火を楽しまれたそうです。送っていただいた写真を掲載します。

 武田山探見人さんの新ブログはその名もずばり「武田山・火山 広島南アルプス」記事はこちら
 

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コメント

商工会のたけぴょんです。

とてもこわ~い、そしてたのし~いツアーだったのですね。

しかし、とてもよく詳細に取材をしてくださっていて、一緒に登った気持ちにさえなりました。

ありがとうございました。

投稿: たけぴょん | 2011年8月 1日 (月) 08時43分

いやはや、ほんまに先生です。
モノクロの画像は迫力ありますね~

先日安佐北の山道を、夜クルマで走ったのですが、
イノシシが飛び出てきて焦りました。

当日は何もなくてよかった。。。

投稿: ほんまに先生 | 2011年8月 1日 (月) 18時15分

初めまして、ブログ拝見しました。

現在真幡神社氏子で比治山神社の近くの会社で働いている者です。匿名での質問失礼では御座いますが、何卒宜しくお願い致します。

真幡神社の由緒書にも比治山神社との関係が書かれていましたが、比治山神社、安神社の宮司様共に否定されました。比治山神社の古記録は神社が御所蔵なのでしょうか。

もし何かお教え頂ける事が御座いましたら何卒宜しくお願い致します。

投稿: | 2012年10月28日 (日) 14時52分

 ご質問ありがとうございます。
 ブログの記事執筆にあたっては、平成13年発行「ふるさと やまもと」(山本史をつくる会編集、祇園西公民館発行)、昭和45年発行「祇園町誌」(祇園町誌編纂委員会編纂、祇園町発行)を主な資料としておりますが、お尋ねの真幡神社の記述については昭和14年6月に山本9丁目の立専寺住職武田庸全氏が上梓した「山本史」の中の「敬神並宗教史」にある以下の文章を元にしており、神社関係者への直接の取材は行っておりません。

【引用開始】
当東山本には徃昔より黄幡大明神を鎮祭したる黄幡神社といへる小堂あり。
然る所その後(年時不詳)何者か社内の御祭神たる黄幡大明神の御神体を盗みて廣島の比治山の上に持ち帰り祭る、而るに夜な夜な御神体より「山本へ帰る帰る」との聲ありて実に奇瑞現はる、遂に神社を東山本の方向に向けて建て祭りしかば山本へ帰るの声止みしと、此の神社即ち比治山の黄幡神社にて今日尚存す。比治山の黄幡神社の古記録にも当社の祭神は元東山本より遷座したる旨記しありと、而し年時は其記なし。
此の事ありて東山本鎮座の黄幡社には祭神の御神体なくなりたれば当時当村住人大伴某なる者上京したる際京都にて猿田彦命の分霊を申し受け帰りて之の社内に安鎮し之を祭るが現在の御神体なりと、而して其の年時も不詳なり。
私按ずるに道の古来より当村に傳へらるる古老の説は事実ならん。
比治山の黄幡神社に其記録ありて以前神主が当村に取調べに来りし事あり、惜むらくは当村並びに比治山、共に其の年時を詳にせざることなり。
【引用終了】

 「山本史」は村内に見るべき郷土誌がないことを憂いた庸全氏が、病身を押して書き上げた1000ページにも及ぶ手書きの郷土史で、内容は昭和40年代に刊行された安佐郡内の各町史に全く見劣りしないものです。庸全氏は昭和16年に亡くなられましたが、人から人へ手書きで複写されたものが戦後の郷土史学習のテキストとして使われました。「山本史」は氏の遺品として現在も立専寺に大切に保管されていますが、痛みが激しく一般の方がご覧になるのは難しいと思います。

 「比治山の黄幡神社に其記録ありて以前神主が当村に取調べに来りし事あり」と庸全氏が直接見聞した体験があり、故に「古老の説は事実ならん。」という前段の記述になっているものと思いますので、古記録が存在していたことは確かなことだと信じています。
 現在の古記録の行方については、私もぜひ知りたい所です。

 ご期待に添える回答になっておらず申し訳ありません。
(よろしかったらmidorikai@hotmail.co.jpまでメールをお送りください。)

投稿: ブログ管理人 | 2012年10月28日 (日) 21時38分

こんにちは、以前真幡神社、比治山神社に関して質問をさせて頂いたものです。御教え頂いたアドレスmidorikai@hotmail.co.jpに御礼のメールを二度ほど送らせて頂きました。届いておりますでしょうか。何卒宜しくお願い致します。

投稿: | 2013年2月 2日 (土) 12時57分

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