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2011年8月

2011年8月28日 (日)

安佐南区長らがやん谷道・三谷川石組堰堤を視察

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 3.11の東日本大震災以後、自分たちの町の災害の歴史に目を向け防災意識を高めようという機運の高まりを「山本水害の歴史を伝える」と題し、シリーズでお伝えしてきました。
 身近な町の歴史を学び自分たちも災害と決して無縁ではないことを知ることで、東日本大震災を他人事と捉えず、日本の復興に向けて一人ひとりが自分のできることを実行してくれると確信しています。
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 8月25日(木)、稲田会長の強い要望で、山本水害の歴史を伝える三谷川源流三面石組堰堤と公益信託広島市まちづくり活動支援基金「ふむふむ」の助成を受けて完成した「やん谷自然道」を、安佐南区長らに視察してもらいました。
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 この日最初の視察地である「やん谷自然道」の入口に集まった視察団は、梶原安佐南区長、川添市民部長、伊澤農林建設部長をはじめ、安佐南区役所農林課、管理課、土木課、安全コミュニティ担当の各課長らと種清市議会議員の合計11名。
 稲田会長、二井屋田副会長らみどり会のメンバーが出迎えました。
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 「やん谷自然道」を実際に歩いてもらいながら、湧いてくる鉱泉に浸かって足の病いが治ったと評判が立ち、「湯つぼ」や「上観音」へお参りする人で明治の半ばまで賑わっていたこと、昭和30年代までは伐採した木を運び出すトラックが走っていた道が岩だらけの人が歩くのも困難な道になってしまっていたこと、平成21年にふむふむの助成を受けて地元の尼子建設などの企業の協力で自然道としてよみがえったことなどを、二井屋田副会長が引率をしながら説明しました。
 途中にある元のバイク広場では、この場所を毎週末使っていたバイクグループと話し合いを持ち、来てもらわないようにした後、登山会で記念植樹を行い自然公園として整備する計画であることの説明や、砂防対策の要望などを稲田会長が語りました。
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 「やん谷自然道」を引き返し、車で三谷川へ移動した一行は、源流の三面石組堰堤をめざします。
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 昭和40年代に作られた3つのコンクリートの堰堤を越えると、傾斜の険しい山道に変わっていきます。ロープを頼りに滑りやすい沢もまたいでいきます。「堰堤の写真は見ていたがこんな山の上の方だとは思わなかった」と声をあげる人もいました。
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 最上部の長さ約120mの石組みを登って、大きさを体感してもらいました。
残暑厳しい日差しの強い日だったので、堰堤の上部に到着した時には全員汗びっしょりでした。
 二井屋田副会長が登山道整備中に半ば土に埋もれ石組みの間から何本もの木が生えていたこの石組み堰堤を偶然発見したこと。誰も存在を知らなかったこの山本水害の歴史の生き証人を地域の人々に呼びかけ協力してもらって保全活動を進めていることなどを現地で区長らに説明しました。
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 堰堤最上部で記念撮影後、尾根まわりのルートで下山しました。
 安佐南区役所の皆さんは「大変だったが、貴重な体験だった」と口々に話されていました。午後からはきっと仕事にならなかったのではないかとお察しします。ありがとうございました。

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2011年8月27日 (土)

「山本水害」の歴史を伝える4

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 郷土の歴史に詳しい山本地区の長老、村越幸三(むらこし こうぞう)さんが、8月20日(土)に春日野小学校で山本水害について話しをされました。
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 この日のお話しは、春日野小学校、山本小学校に通う子どものお父さん達で組織するおやじの会「やまもとダディーズ」が企画した「学校へ『ひなん』しよう!!・防災体験」の活動の一つとして行われたものです。
 体育館の壁に液晶プロジェクターで大写しにされた「水害写真帳」の写真や、やまもとダディーズのお父さんが村越さんから写真帳の写真が撮影された場所を聞き作成した、現在の様子と対比した資料などを使って当時の惨状や復興の様子を説明し、参加した子どもたちや保護者は真剣に聞き入っていました。
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 「学校へ『ひなん』しよう!!・防災体験」は、朝9時から夜8時まで行われ、村越さんの山本水害の話しの外に、午前中は避難場所のプライバシーを確保することを想定した「ダンボールハウス」づくりが行われました。
 ダディーズのお父さん方が前日に作った見本のダンボールハウスを参考に、数グループに分かれた子どもたちがそれぞれ個性的なダンボールハウスを楽しみながら作りました。
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  午後からは安佐南区消防署祇園出張所による東日本大震災支援活動の体験談や、消防・防災訓練、東日本大震災被災地の取材レポートなど盛りだくさんの内容で行われました。
 夕食では消防署からいただいた乾パンやお湯や水を注ぐだけで食べられる「マジックライス」、青いTシャツ姿ダディーズのお父さん方の手づくりの豚汁などが出されました。 参加した子どもたちにとっては、ずっと忘れることのない貴重な体験になったことだと思います。
 PTAのお父さんの活躍は過去にも伴小学区の「火山のてっぺんで校歌を歌おう」をお伝えしたことがありますが(記事はこちら)、山本地区にもこんな素敵ながんばるお父さん達がおられる事を今回知り、とてもうれしくなりました。
 山登りの行事も計画されているということなので、今後みどり会との連携も深めて一緒に、子どもたちを自然の中でたくましく育てていければと願っています。
 お父さん達、朝から晩までの長時間大変お疲れ様でした。途中の飛び入り参加を快く受けていただいたばかりか、食事までご馳走になり本当にありがとうございました。

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2011年8月26日 (金)

「山本水害」の歴史を伝える3

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 8月12日、みどり会二井屋田副会長と畑野の2名で、「山本水害」の体験者 古田アキコ(旧姓世羅)さんから当時の状況についてのお話を伺いました。
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 古田さんは明治44年10月生まれの、今年100歳になられるお婆さんです。「山本村水害写真帳」を見ていただくなどして当時の状況をお話していただきました。
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 水害写真帳に記載されている写真中央が古田さんの当時のお宅(世羅粂一氏宅)。川のすぐそばにあり、床上まで水が押し寄せました。小さかった弟を抱きかかえて必死で逃げたそうです。
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 水害から1ヶ月後、大正15年10月11日に専念寺で行われた合同葬の様子。この後ろ姿のどこかに古田さんもいます。葬儀に出席するためお父さんから袴を買っていただいた話しなどを伺いました。
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 山本水害の話しばかりでなく、戦争中の松根油を集めた話しなど興味深いお話しも伺うことができました。「こんなものを集めるようでは戦争に勝てるわけがない」と堂々と話されるなど、当時の肝っ玉母さんぶりを娘さんの塚本ハツコさんが証言します。
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 いつまでもお元気で、水害の実態を後世へ伝えてください。ありがとうございました。

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2011年8月22日 (月)

「山本水害」の歴史を伝える2

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 7月10日の三谷川視察を経て、ラジオ番組作成のための経済大学の宮田さん・秋田さん・村上さんの3学生の取材は、7月14日の夕方みどり会事務所である稲田会長の自宅で行われました。
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 インタビューでは、会の活動に関する質問として、

・里山環境保全みどり会を立ち上げる経緯
・三谷川源流清掃活動・学習資料・清掃活動・登山活動を企画したきっかけ
・災害の歴史を後世に残していく意義や思い
・活動を行っていく中で感じたこと
・参加した方の気持ち(なぜ参加しようと思ったか・参加して変わった心境)


などを聞かれました。また、東日本大震災に関する質問では、

・震災を受けて、被災者に伝えたいこと
・震災の中で後世にどのようなこと伝えたほうがよいか

ということを聞かれて、稲田会長、二井屋田副会長がそれぞれの思いを熱く語りました。

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 この日は、中国新聞安佐南区担当の前岡 愛記者が、「学生の皆さんの取材」の取材に訪れました。(前岡記者はこの取材の後、8月に松江支局へ転勤されました。新しい地でのご活躍お祈りします。)
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 取材後に記念撮影。

 ラジオ放送は次の日時に行われます。ぜひ皆さん視聴をお願いします。

周波数 FMハムスター(79.0MHz)
番組名 Open Sound Community (オープンサウンドコミュニティ)
放送日 9月5日(月曜日)9月8日(木曜日)
時間帯 両日共に10時~11時

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2011年8月21日 (日)

「山本水害」の歴史を伝える1

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「始めまして。
私達は、広島経済大学経済学部メディアビジネス学科土屋ゼミの3回生です。
 愛知淑徳大学と交流を目的にお互いの地域を紹介するラジオ番組の制作を行っております。今回は、東日本大震災を受け、「災害の記憶」をテーマについて調べています。
 私達のグループは広島経済大学周辺で起きた災害は無いのか調べたところ、1926年9月11日に広島市安佐南区祇園山本川で発生した山本大水害という災害があったことを知りました。
 大学周辺に過去に災害があったことに驚き、私達の地域で起きた災害について知りたいと思うようになり、さらに調べていたところ、里山環境保全みどり会様は山本大水害の歴史の証人である石組堰堤の保全活動を行っていると聞きました。
 災害の記憶を風化させないという思いに感銘を受け、詳しくお話を聞かせていただきたいと考えております。」

 広島経済大学の3名の学生、宮田さん・秋田さん・村上さんからこのようなメールを受け取ったのは6月27日のことでした。稲田会長に相談すると「良いことなので、ぜひ協力しましょう」と即答、まずは実際に水害の跡をたどってみようと7月10日、祇園西公民館から西山本川をさかのぼり三谷川源流の石組堰堤を訪ねる2年前の登山会のコースを再び歩いてみることにしました。

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 この日集まったのは、経大生の村上さん、祇園に公民館の石川さん、広島修道大学の松川先生、そしてみどり会二井屋田副会長、高木さん、畑野の6名です。祇園西公民館を出発し、西山本川の石組みの川土手をさかのぼっていきました。
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 村上さんに二井屋田副会長が水害写真帳の写真を見せ当時の被害の様子と現在の状況を説明しながら、水害の犠牲者が運び込まれた専念寺(せんねんじ)へ到着しました。
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 本堂へあげていただき水害の犠牲者の冥福を祈りました。住職の奥様から水害写真帳のパネルを見せていただきました。この資料は、水害で自宅ごと土石流に押し流されながら奇跡的に助かった益見秀夫(ますみひでお)さん(故人)が、水害写真帳の写真1点1点に当時の場所や様子を書き込まれた貴重な資料です。
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 専念寺を出発、平山八幡神社に入口に立つ「瀬川卯一翁彰徳碑」を見学しました。水害当時の村長瀬川卯一氏は、壊滅状態にあった山本村の復旧に先頭に立ち取り組みました。
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 神社から再び西山本川をさかのぼり、畑小原橋から春日野団地方面に向かいました。
春日野団地の西橋にある三谷川入口に到着したのは、公民館を出発して約1時間後です。
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 昭和の時代のコンクリートの堰堤を3つ越えると、いよいよ三谷川の源流地帯です。この日は水量が多く、沢をまたぐ箇所では安全対策のロープをつかまりながら慎重に進みました。
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 堰堤の上で記念撮影。この後大塚峠へ登り、上観音~湯つぼ跡を経由して西公民館に戻りました。

当日のその他の写真→こちらをクリック

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2011年8月19日 (金)

お盆に安芸武田氏の霊を慰める

 7月23日(土)に行った「武田山ナイトツアー」(記事はこちら)以来、どうも寝付きがよくありません。何か胸が苦しいような感じがしたり、枕元で何か囁くような声が聞こえるような気がすることも…。
 お盆に我が家のお墓参りをすませた後に、武田山にあった銀山城(かなやまじょう)の城主、安芸武田一族の霊も慰めるようと碑めぐりをしてきました。

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 最初に向かったのは、広島市安佐南区長楽寺3丁目 ふじヶ丘団地はずれにある「安芸源氏 武田一族終焉の地」の石碑。
 通称「餓鬼の首」と呼ばれる丘の一角に、この石碑はあります。武田の残党が女子どももろともこの場所で首を切られたと伝えられ、「地面を掘ったら血が染み出す」と怖れられて団地造成で姿を消す運命でしたが、郷土史家の村岡幸雄氏がこの一角を買い取り平成10年4月に碑を建立されました。
 碑の背面には次の文章が刻まれています。

今を去ること四百有余年の昔 天文十年三月十三日
新羅三郎源義光が末裔 安芸の国守護武田信重は
おしよせる大内・毛利の大軍に祖父の地を死守せんと
奮戦せしも 衆寡敵せず金山城にて一族諸共に
自刃す 残りし血族は悉く捕われ 六親等に至るまで
あわれ無情の刃にかかりてはて、封印される
時は流れ 辛くも難をのがれその血を今に伝えし者共
真を積みて悲願結集し、尊き仏法の功徳力をもて
縛はとかる
今はただ苦もなく怨もなく一族ともに仏国浄土に赴かん
願わくはその説く所 怨親平等の大慈大悲 戦乱に倒
れし遍くの諸霊の上に注がれん事を
 諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽
     武田信重が裔 清水信一 浅水重子
            薄井祐子 古川牧絵
     武田源三が裔 村岡幸雄
    平成十年四月建之

Imgp3215  碑の側には、平成22年4月に安郷土史会の皆さんの手で説明板も建てられました。
Imgp3226  アストラムラインの高架や広島市交通科学館のモダンな建物の向こうに武田山が静かにたたずんでいます。

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 次に向かったのは広島市安佐南区大町西二丁目県営下大町住宅の西側にある歌碑です。碑には次のような歌が詠まれています。

打たれても共に
力お合せつつ
武田の山の
神のみもとに

吉野いし句
総代 谷口松夫 河野圭二 熊中 繁 外信徒一同

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 そばには安古市郷土史会の解説板が掛かっています。

 大内氏が二万五千の大軍を率いて、四度に渡って攻撃せしも陥落しなかった銀山城、天文一〇年(一五四一年) 三月四日毛利軍の主将児玉就方が、金蔵寺山に陣取り攻撃を試みたが、頑強な抵抗に合い長期戦の様相に思案の結果裏からの攻撃を試みた処、裏を撹かれた武田勢は、この谷に流れ込んで死者多数を出し武田軍の敗退を余儀なくした。
 ここに碑を立てて其の霊を慰めるものである。
昭和六十一年(一九八六年)九月建之
                      安古市郷土史会

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 平成23年1月に大町6号砂防堰堤が完成し、以前とは様子がすっかり変わってしまいましたが、堰堤横の大きなクスノキの根元に建つこの碑は、今日も大町の町を高台から見守っています。

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 最後に向かったのは、広島市安佐南区高取南1丁目にある団地「ニューハイツ高取」の高取第4公園そばの墓地の一角にある「武田家一族之霊碑」の石碑です。
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 団地造成の際に出てきた五輪塔をまとめて供養した碑で、昭和39年9月に建てられました。
 碑を建てた佐々木清一氏の名前を見てもピンとくる人は数多くいないと思いますが、清一氏は広島人なら知らない人はなく、今は全国にもその名が知られるあの「オタフクソース」の創業者なのです。
 碑の裏側には次の文が刻まれています。

天文十年(1541)五月十三日、武田城落城に臨んで、城主武田光和公は、
「苟も大和武士として、主たる者を騙し打ちとは卑劣至極」とその不信を慷慨し
悲憤の中に自刃し玉えりと云う、蓋し興亡常なき戦国武将の宿命と謂うべきか、
 茲に、懺悔しつつ幾多の無縁塚を供養して一族郎党の菩提を弔うことを通じて
全世界の恒久平和を衷心より祈念するものである、  末裔 佐々木清一誌


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 碑からは武田山~火山の稜線が一望できます。碑の横の草に埋もれた数々の五輪塔は、何を思い武田山を見続けているのでしょうか。

 それぞれの碑で手を合わせていると、武田一族の無念さよりも、武田一族の最期に思いを寄せ、その思いを後生に伝えるべく碑を建てた皆さんの慰霊の気持ちが熱く伝わってきました。慰霊碑めぐりをしたその晩から、ぐっすり眠れるようになったのはいうまでもありません。
 これらの碑はいずれも住宅地にあり近くに駐車スペースはありません。くれぐれも不法駐車等で近隣の方にご迷惑をかけることのないようお願いします。

より大きな地図で 武田一族慰霊碑 を表示

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2011年8月10日 (水)

武田山の名水を原爆供養塔へ献水

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 66回目の8月6日を迎えたヒロシマ。
 あの日、生きたまま焼かれ「水をください」とうめきながら亡くなっていった多くの人の霊を慰めるために、今年も武田山の「水越名水」と「大町観音水」を、早朝原爆供養塔へ献水しました。

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 献水する水は前日の夕方汲みに行きました。
 まず最初に向かったのは武田山と火山の間の「水越峠」から山本側へ少し下った「水越名水」。平成17年に整備した水場です。
 梅雨明けすぐは豊富に出ていた水も水量がかなり少なくなっており、登山者の水場として年間を通じて利用することができないのは残念です。
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 次に向かったのは、広島市立安佐南中学校の裏手にある「大町観音水」。
 こちらは豊かな量の水が流れていました。

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 「大町観音水」は、株式会社ザメディアジョン発行の無料の生活情報誌「まるごと安佐南&安佐北。」(スーパーマーケットなどで毎月5万部配布)8月号の特集「ご近所の名水スポット」でも紹介されています。

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 現在、安佐南中の西側の谷では砂防堰堤建設の工事が進められています。
 工事着工前は、谷道を通って7~8分で水場まで行くことができましたが、現在は写真のように山の斜面のう回路を通らなければいけません。かなりアップダウンがあり、工事の車両も通りますから水汲みにいかれる場合は十分な注意が必要です。

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2011年8月 4日 (木)

似島、17番目の原爆献水

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 このブログでも何度も取り上げている「原爆献水」。
 広島市民にもっともっと広く知ってもらい、環境と平和を同時に考え、行動してほしいと願っています。この原爆献水が、今年は新聞記事で大きく取り上げられました。

 原爆投下後に1万人の負傷者が運び込まれた似島(にのしま)陸軍検疫所の井戸が、8月6日の平和記念式典の直前に行われる「原爆献水の儀式」の17番目の採水地として選ばれたニュースです。

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 「似島の水を原爆献水に」と8年間にわたって呼びかけを続けて来たのが、名水フリーライターの錦川 鯉(にしきがわ こい)さんです。
 錦川さんは平成15年頃の取材で似島の水に出会い、多くの負傷者の末期を看取り、また命を救ったこの水が原爆献水に選ばれていないことに気づき、平成17年から毎年広島市に原爆献水の採水地に加えるよう訴えてこられました。
 しかし、市は錦川さんの訴えを却下し続け、今年ようやく似島社会福祉協議会と広島市市民活動推進課の話し合いで17番目の原爆献水が実現することになりました。
 8月2日に行われた井戸周辺の草取り清掃作業には錦川さんも参加されましたが、錦川さんが広島市に強く要請していた井戸の水をきれいにする「井戸替え」の作業は行われず、まだまだ課題は残されています。
 
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 8月4日。錦川さんに誘っていただき、広島市立似島中学校グランド南側にある慰霊碑で行われる慰霊祭に出かけてきました。
 今、似島中学校の建つ場所には、昭和15年に戦地から帰還した軍馬を検査する陸軍馬匹検疫所(りくぐんばひつけんえきしょ)が作られ、原爆投下後は亡くなった被爆者の方の火葬にも使われました。
 昭和46年11月、似島中学校農業実習地から推定517体の遺骨と推定100体分の骨灰、その他の遺品が発掘され、翌昭和47年11月に慰霊碑が建立されました。
 その後、平成2年9月に旧陸軍馬匹検疫所馬焼却炉跡からスコップ300杯分の骨片、骨灰が発掘され、平成16年7月には昭和46年の発掘場所に隣接した場所から85体の遺骨と65点の遺品が発掘され、遺骨は平和公園内の原爆供養塔へ納骨されています。

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 8時から行われた慰霊祭には地元住民代表のほか島内の似島中学校、似島小学校、似島学園小中学校の児童生徒も参加し、この地で亡くなられた原爆被爆者の霊を慰めました。
 錦川さんは、鎮魂の音色を17番目の原爆献水に選ばれた似島の人々に聞いてもらおうと水琴窟(すいきんくつ)を会場の片隅に設置しました。
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 慰霊祭終了後、水琴窟に水を注ぎ興味深そうに見つめる小学生のこどもたち。
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 中学生は、会場の椅子やテントの片付けをがんばった後、交代で鎮魂の音色に聞き入りました。
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 「水琴窟に使っているこの水瓶は、黄金山麓の旧家にあったもので、爆心地から3.2kmで被爆し壊れずに残ったものなのです」と説明する錦川さん。
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 慰霊祭会場を後にして、錦川さんに今回原爆献水に選ばれた旧陸軍似島第二検疫所跡の井戸を案内していただきました。
 井戸は広島市似島臨海少年自然の家のキャンプ場の中にありました。
「えっ、これなんですか?」と思わず声が出てしまいました。井戸はコンクリートの殺風景な囲いで覆われ、鍵のかかったフェンスで中に入れないようになっています。原爆献水に選ばれてから少年自然の家の所長さんが急遽フェンスにとりつけた説明板には次の文言が書かれています。

第二検疫所の井戸
 この井戸は明治37年(1904年)日露戦争の開始と共に建設された第二検疫所の重要な生活用水の水源として利用されました。
 昭和20年(1945年)の原爆投下時には、この井戸の水が、多くの被災者の救護に使われました。

説明板がなかったら誰も歴史を重ねてきた「井戸」だとはわからない感じです。
錦川さんは慰霊のあり方について、今後も島の人々と対話を続けていきたいと話されています。

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2011年8月 1日 (月)

カブトムシ採り2日目

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 カブトムシ採り2日目も朝10時に祇園西公民館へ集合。みどり会メンバーの車で「鹿ヶ谷ふれあい広場」へ向かいました。
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 さっそく昨日仕掛けたワナを確認する子どもたち。
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 「あっ!入っとるよ~!」
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 うれしそうに見せてくれます。
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 つがいで買いたい人には、ふれあい広場で育てているカブトムシの販売もしました。
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 「どれにしようかなあ?」
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 この日のふれあい広場はとても賑やかでした。
 ボーイスカウトの中学生4人組がテント泊していたほか、下組自治会の皆さんが、ソーメン流しを楽しまれていました。
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 カブトムシ採りは来年の夏も予定しています。また、遊びにきてね!

 

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