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2011年8月19日 (金)

お盆に安芸武田氏の霊を慰める

 7月23日(土)に行った「武田山ナイトツアー」(記事はこちら)以来、どうも寝付きがよくありません。何か胸が苦しいような感じがしたり、枕元で何か囁くような声が聞こえるような気がすることも…。
 お盆に我が家のお墓参りをすませた後に、武田山にあった銀山城(かなやまじょう)の城主、安芸武田一族の霊も慰めるようと碑めぐりをしてきました。

Imgp3224

 最初に向かったのは、広島市安佐南区長楽寺3丁目 ふじヶ丘団地はずれにある「安芸源氏 武田一族終焉の地」の石碑。
 通称「餓鬼の首」と呼ばれる丘の一角に、この石碑はあります。武田の残党が女子どももろともこの場所で首を切られたと伝えられ、「地面を掘ったら血が染み出す」と怖れられて団地造成で姿を消す運命でしたが、郷土史家の村岡幸雄氏がこの一角を買い取り平成10年4月に碑を建立されました。
 碑の背面には次の文章が刻まれています。

今を去ること四百有余年の昔 天文十年三月十三日
新羅三郎源義光が末裔 安芸の国守護武田信重は
おしよせる大内・毛利の大軍に祖父の地を死守せんと
奮戦せしも 衆寡敵せず金山城にて一族諸共に
自刃す 残りし血族は悉く捕われ 六親等に至るまで
あわれ無情の刃にかかりてはて、封印される
時は流れ 辛くも難をのがれその血を今に伝えし者共
真を積みて悲願結集し、尊き仏法の功徳力をもて
縛はとかる
今はただ苦もなく怨もなく一族ともに仏国浄土に赴かん
願わくはその説く所 怨親平等の大慈大悲 戦乱に倒
れし遍くの諸霊の上に注がれん事を
 諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽
     武田信重が裔 清水信一 浅水重子
            薄井祐子 古川牧絵
     武田源三が裔 村岡幸雄
    平成十年四月建之

Imgp3215  碑の側には、平成22年4月に安郷土史会の皆さんの手で説明板も建てられました。
Imgp3226  アストラムラインの高架や広島市交通科学館のモダンな建物の向こうに武田山が静かにたたずんでいます。

Imgp3237
 次に向かったのは広島市安佐南区大町西二丁目県営下大町住宅の西側にある歌碑です。碑には次のような歌が詠まれています。

打たれても共に
力お合せつつ
武田の山の
神のみもとに

吉野いし句
総代 谷口松夫 河野圭二 熊中 繁 外信徒一同

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 そばには安古市郷土史会の解説板が掛かっています。

 大内氏が二万五千の大軍を率いて、四度に渡って攻撃せしも陥落しなかった銀山城、天文一〇年(一五四一年) 三月四日毛利軍の主将児玉就方が、金蔵寺山に陣取り攻撃を試みたが、頑強な抵抗に合い長期戦の様相に思案の結果裏からの攻撃を試みた処、裏を撹かれた武田勢は、この谷に流れ込んで死者多数を出し武田軍の敗退を余儀なくした。
 ここに碑を立てて其の霊を慰めるものである。
昭和六十一年(一九八六年)九月建之
                      安古市郷土史会

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 平成23年1月に大町6号砂防堰堤が完成し、以前とは様子がすっかり変わってしまいましたが、堰堤横の大きなクスノキの根元に建つこの碑は、今日も大町の町を高台から見守っています。

Imgp3202

 最後に向かったのは、広島市安佐南区高取南1丁目にある団地「ニューハイツ高取」の高取第4公園そばの墓地の一角にある「武田家一族之霊碑」の石碑です。
Imgp3206

 団地造成の際に出てきた五輪塔をまとめて供養した碑で、昭和39年9月に建てられました。
 碑を建てた佐々木清一氏の名前を見てもピンとくる人は数多くいないと思いますが、清一氏は広島人なら知らない人はなく、今は全国にもその名が知られるあの「オタフクソース」の創業者なのです。
 碑の裏側には次の文が刻まれています。

天文十年(1541)五月十三日、武田城落城に臨んで、城主武田光和公は、
「苟も大和武士として、主たる者を騙し打ちとは卑劣至極」とその不信を慷慨し
悲憤の中に自刃し玉えりと云う、蓋し興亡常なき戦国武将の宿命と謂うべきか、
 茲に、懺悔しつつ幾多の無縁塚を供養して一族郎党の菩提を弔うことを通じて
全世界の恒久平和を衷心より祈念するものである、  末裔 佐々木清一誌


Imgp3211 
 碑からは武田山~火山の稜線が一望できます。碑の横の草に埋もれた数々の五輪塔は、何を思い武田山を見続けているのでしょうか。

 それぞれの碑で手を合わせていると、武田一族の無念さよりも、武田一族の最期に思いを寄せ、その思いを後生に伝えるべく碑を建てた皆さんの慰霊の気持ちが熱く伝わってきました。慰霊碑めぐりをしたその晩から、ぐっすり眠れるようになったのはいうまでもありません。
 これらの碑はいずれも住宅地にあり近くに駐車スペースはありません。くれぐれも不法駐車等で近隣の方にご迷惑をかけることのないようお願いします。

より大きな地図で 武田一族慰霊碑 を表示

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コメント

私は沼田の分家から光和の娘に婿養子で入った、そして銀山城最後の城主であった武田信重の裔、古川牧絵です。薄井祐子は、先年亡くなりましたが私の姉です。そして、浅水重子は母です。つれづれ日記には清水信一と有りましたが、母の兄浅水信一の間違いです。今さらと思われますでしょうが、村岡先生がどのように仰ったかは存じませんが、餓鬼の首の土地は姉薄井が所有していた藤和不動産より買い戻したもので、村岡先生は祟りが怖いので、一切関わりたくないと逃げておしまいになりました。私と娘が時々お掃除に参りますが、何も連絡なしにある日突然看板が立ててありました。今さらとは思いますが、偶然この日記を見つけましたので、真実を知っていただきたいと
コメントさせていただきました。ちなみに落城の時我が先祖である信重の嫡男をお百姓の姿に変え負ぶって海田にあった日浦山城に逃げてくれたのは、守役であった忠義の家臣 麻生です。麻生の母親が日浦山城主の娘であったと聞いています。武田の姓を名乗ると殺されますので、麻生の子供ということで生涯を通しましたが、後に浅野の時代に麻生と浅野でよく似てるので、浅水に改名させられました。そして、残った一族は明治の初め海田から広島市に移り住み本川沿いで材木問屋を営んでおりましたが、原爆でほぼ全滅してしまいました母は熊野に嫁に行ってたので免れましたが1週間後に一族を探しに広島に入り被爆者となりました。残された守り刀は高野山に預けました。

投稿: 古川 牧絵 | 2016年8月29日 (月) 01時10分

私は沼田の分家から光和の娘に婿養子で入った、そして銀山城最後の城主であった武田信重の裔、古川牧絵です。薄井祐子は、先年亡くなりましたが私の姉です。そして、浅水重子は母です。つれづれ日記には清水信一と有りましたが、母の兄浅水信一の間違いです。今さらと思われますでしょうが、村岡先生がどのように仰ったかは存じませんが、餓鬼の首の土地は姉薄井が所有していた藤和不動産より買い戻したもので、村岡先生は祟りが怖いので、一切関わりたくないと逃げておしまいになりました。私と娘が時々お掃除に参りますが、何も連絡なしにある日突然看板が立ててありました。今さらとは思いますが、偶然この日記を見つけましたので、真実を知っていただきたいと
コメントさせていただきました。ちなみに落城の時我が先祖である信重の嫡男をお百姓の姿に変え負ぶって海田にあった日浦山城に逃げてくれたのは、守役であった忠義の家臣 麻生です。麻生の母親が日浦山城主の娘であったと聞いています。武田の姓を名乗ると殺されますので、麻生の子供ということで生涯を通しましたが、後に浅野の時代に麻生と浅野でよく似てるので、浅水に改名させられました。そして、残った一族は明治の初め海田から広島市に移り住み本川沿いで材木問屋を営んでおりましたが、原爆でほぼ全滅してしまいました母は熊野に嫁に行ってたので免れましたが1週間後に一族を探しに広島に入り被爆者となりました。残された守り刀は高野山に預けました。

投稿: 古川 牧絵 | 2016年8月29日 (月) 01時15分

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