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2014年5月27日 (火)

山頂でのドラムサークルで盛り上がった!武田山の日一斉登山

Img_9400_2 上安バスターミナル屋上広場で受付

Img_9405_2 出発式の様子。コースのがいよう説明や引率スタッフの紹介を行いました。今回、ゲストとして「あきく魅力探見隊」の松浦副代表様と児玉様に来ていただきました。
Img_9409 最初に向かったのは安川通り手前の鶏頭原薬師堂。
Img_9416 薬師堂の解説をされた安郷土史懇話会の藤田さんは、ご自宅がお堂のすぐ前でこの薬師堂を守っておられ、誰よりも思い入れの強い方です。それだけに解説には熱がこもります。ちょっと時間が…

 この薬師堂では、村内の野村家、品川家、原田家で作られていた「安の目薬(やすのめぐすり)」のお話しを伺いました。
 安の目薬は、「安の花田植え」「安のついたち灸(きゅう)」と並び、全国的に知られた名物でした。
 目薬といえば今では点眼薬が一般的ですが、塗り薬で、下まぶたに粟粒程度塗り、体温で自然に溶けて眼に入るという仕組みでした。白色でこってりしたクリーム状で、貝殻の容器に入れ赤い紙に包んで売られていました。
 効能書きには、下痢やのどの痛み、痔(じ)から淋(りん)病まで効くと書かれ、花田植えの時には、バケツにこの薬を溶き、牛に飲ませるなど牛馬の下痢止めにも使われました。また演説でのどを痛めがちの代議士たちが、うがい薬として使うと声がよく出るというので、いつも懐に忍ばせて愛用していたそうです。
 こうした評判から、昭和の初期には関西方面はもちろん、朝鮮半島や満州、ハワイなどにも販路が広がったといいます。
 しかし、太平洋戦争末期、目薬の主な材料だった「じゃ香」が中国から入ってこなくなったことや、政府の薬業統合や目薬は液体でないと認めない指導により「安の目薬」は姿を消していきました。
Img_9417  薬師堂の石段を降りると小道が東へ延びています。この幅2m足らずの小道は、かつての古代山陽道と考えられています。
 古代山陽道は大化2(646)年頃、当時の都から九州の大宰府(福岡県)までの約500kmが、整備されたもので、今でいう国道です。馬がやっと通れるくらいの大変狭い道幅で、馬のリレーで大切な文書やお役人を運んでいたということです。
 当時の国道は、都から地方に向かって7本の官道が整備されていました。中でも山陽道は、大陸文化が入ってくる大宰府が近かったため、一番大きな道でした。 安佐南区内では、戸坂から太田川を渡って東野付近に出て、現在のアストラムラインに沿うように相田、上安、伴、大塚を通り、石内方面へ抜けたと考えられています。
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 安川通りを横断し安川にかかった「正伝寺橋」を渡ります。 
この橋は昔、庶民が渡る橋ではありませんでした。鷹狩りに来た殿様が通った橋ということで「御鷹野橋(おんたかのばし)」と呼ばれていたようです。
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 正伝寺前の公園で解説をされたのは懇話会の佐伯会長。
この正伝寺は、平安時代の中ごろ、武田山の中腹に阿弥陀寺として建てられたのが始まりで、その後、安芸国守護銀山城主・武田伊豆守信宗の菩提所となり、寺号も光賢寺(こうけんじ)と改名。それから約250年間、武田家の手厚い保護を受け、ますます栄えました。今でも本堂の扉には、武田菱の家紋が刻まれています。
 本願寺の顕如(けんにょ)が織田信長の攻略によって大坂石山に篭城した際、当時の正伝寺住職・願誓(がんせい)は、多くの信徒とともに本願寺救援に赴き、大坂で戦死。以後、正伝寺の名声は全国に響き渡りました。そのことを示す顕彰状が、本堂に飾られているそうです。
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 武田氏が滅んだ後、江戸時代に入ってからも福島氏、浅野氏とも良好な関係が続きました。境内にあるクロガネモチの巨木は豊臣秀吉の命で朝鮮出兵した福島正則が、朝鮮半島から持ち帰ったクロガネモチの苗が育ったものと言われており、県の天然記念物に指定されています。
 浅野家4代目藩主、浅野綱長は、鷹狩りの途中にたびたび立ち寄り、当時の安村を写生した自筆の山水画を寺に残しています。この絵の中にクロガネモチの大樹も描かれています。
Img_9433  次に一行が向かったのは団地の一角の墓地内にある「武田家一族の霊碑」。ここでは郷土史懇話会の小山さんが解説をされました。

霊碑の碑文には次の文章が刻まれています。
天文(てんぶん)十年(1541)五月十三日、武田城落城に臨んで、城主武田光和(たけだみつかず)公は、「苟(いやしく)も大和武士として、主たる者を騙し打ちとは卑劣至極」とその不信を慷慨(こうがい=怒り嘆く)し悲憤の中に自刃し玉えりと云う、蓋し(けだし)興亡常なき戦国武将の宿命と謂うべきか、
 茲(ここ)に、懺悔しつつ幾多の無縁塚を供養して一族郎党の菩提を弔うことを通じて全世界の恒久平和を衷心より祈念するものである、  末裔 佐々木清一誌(しるす)
 33歳で病死した和光を、「自刃」とするなど今知られている史実とは異なる記述もありますが、碑の横の草むらに積まれた五輪塔とともに毛利元就によって滅ぼされた武田の無念がひしひしと伝わってきます。
 碑の側面には次のように書かれています。
昭和三十九年九月 武田家一家老品川家品川源助三男清一
         お多福造酢株式会社 社長 佐々木清一 建之
 そうなんです。
 この碑を建てた佐々木清一氏は、あのオタフクソースの創業者なんです。武田山と関係があったとは驚きですね。

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